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独翁と名言

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/04(日) 23:39:29
進行。

2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/04(日) 23:49:53

禪宗無門關

3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/05(月) 00:31:03
習庵序

説道無門、盡大地人得入。説道有門、無阿師分。
第一強添幾箇注脚、大似笠上頂笠。硬要習翁贊揚。
又是乾竹絞汁。著得這些哮本。不消習翁一擲一擲。
莫教一滴落江湖。千里烏騅追不得。

 紹定改元七月晦、習菴陳(ケン)寫

4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/05(月) 17:46:51
習庵の序

道は無門と説けば、尽大地の人得入せん。
道は有門と説けば、阿師の分無けん。
第一、強いて幾箇の注脚を添えるは、大いに笠上に笠を頂くに似たり。
硬く習翁が贊揚せんことを要す。
又た是れ乾竹に汁を絞る。這些の哮本を著得す。習翁が一擲に一擲するを消いず。
一滴をして江湖に落さしむること莫れ。千里の烏騅も追い得ず。

 紹定改元七月の晦、習菴陳(ケン)寫す

(訳)
習庵の序

道は「無門」と説くならば、世界のすべての人が入り得るであろう、
道は「有門」と説くならば、我らの師は「無門」などという題名を撰ぶべきではなかった。
第一、それに無理に幾つかの註釈や評語を添えたのは、すでに被っている笠の上にまた笠を被るようなものである。
私、習翁はこの書の賛辞を書くようにと強く要請された。
これは正に、枯れた竹から汁を絞り出し、子供だましの本に擦り付るに等しい。
こんな書物は私が投げ捨てるのを待たずに、さっさと投げ捨ててしまうがよい。
その一滴たりとも世に落としてはならない。
千里を走るという名馬・烏騅といえども、到底追いつくことは出来ないであろうから。
(一度、世に流布させてしまうと、取り返しはできない)

紹定改元七月の晦(一二二八年七月三十日)、習菴陳(ケン) 写す。

5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/06(火) 13:33:40
表文

紹定二年正月初五日、恭遇天基聖節。臣僧慧開、預於元年十二月初五日、
印行拈提佛祖機縁四十八則、祝延今上皇帝聖躬萬歳萬歳萬萬歳。
皇帝陛下、恭願、聖明齊日月、叡算等乾坤、八方歌有道之君、四海樂無為之化。
慈懿皇后功コ報因佑慈禪寺、前住持、傳法臣僧、慧開、謹言。

(訳)----------

表文(ひょうもん)

紹定二年正月初五日、恭しく天基の聖節に遇う。臣僧慧開、預め元年十二月初五日に於いて、
佛祖の機縁四十八則を印行拈提し、今上皇帝聖躬の萬歳萬歳萬萬歳を祝延したてまつる。
皇帝陛下、恭しく願わくは、聖明日月に齊しく、叡算乾坤に等しく、
八方、有道之君を歌い、四海、無為之化を樂しまんことを。
慈懿皇后功コ報因佑慈禪寺、前住持、傳法臣僧、慧開、謹しんで言す。

6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/09(金) 16:46:48
宋代の無門慧開 (1183−1260)

7 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/13(火) 02:00:59
禪宗無門關

佛語心為宗、無門為法門。既是無門、且作麼生透。
豈不見道、從門入者不是家珍、從縁得者始終成壞。恁麼説話、大似無風起浪好肉抉瘡。
何況滯言句覓解會。掉棒打月、隔靴爬痒、有甚交渉。慧開、紹定戊子夏、首衆于東嘉龍翔。
因衲子請益、遂將古人公案作敲門瓦子、隨機引導學者。竟爾抄録、不覺成集。
初不以前後敘列、共成四十八則。通曰無門關。若是箇漢、不顧危亡單刀直入。
八臂那[曽、[遮]他不住。縱使西天四七、東土二三、只得望風乞命。
設或躊躇、也似隔窗看馬騎、貶得眼來、早已蹉過。

  頌曰
 大道無門  千差有路
 透得此關  乾坤獨歩

仏語心を宗と為し、無門を法門と為す。既に是れ無門、且らく作麼生か透らん、
豈に道うことを見ずや、門より入る者は是れ家珍にあらず、縁によって得る者は終始成壊すと。
恁麼の説話、大いに風無きに浪を起こし、好肉に瘡を抉るに似たり。何ぞ況んや言句に滞って解会を覓むるをや。
棒を棹って月を打ち、靴を隔てて痒を爬く、甚んの交渉か有らん。
慧開、紹定戊子の夏、東嘉の龍翔に首衆たり。衲子の請益に因んで、遂に古人の公案をもって門を敲く瓦子と作し、
機に随って学者を引導す。竟爾として抄録するに、覚えず集を成す。初めより前後を以て叙列せず、
共に四十八則と成る。通じて無門関と日う。若し是れ箇の漢ならば、危亡を顧みじ単刀直入せん。
八臂の那だ、他を欄れども住まらず。従使い西天の四七、東土の二三も、只だ風を望んで命を乞うことを得るのみ。
設し或いは躊躇せば、也た窓を隔てて馬騎を看るに似て、眼を貶得し来たらば、早く已に嗟過せん。

頌に日く、
大道無門、千差路有り。
此の関を透得せば、乾坤に独歩せん。 

8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/16(金) 01:49:26
(訳)

禪宗無門關

仏たちの説く清浄な心こそを要とし、入るべき門の無いのを法門とするのである。
さて、入るべき門がないとすれば、そこをいかにして透過すべきであるか。
「門を通って入って来たようなものは家の宝とは言えないし、
 縁によって出来たものは始めと終わりがあって、成ったり壊れたりする」というではないか。
私がここに集めた仏祖の話にしても、風もないのに風を起こしたり、綺麗な肌にわざわざ瘡を抉るようなもの、
まして言葉尻に乗ってなにかを会得しようとするようなことなど、もっての外であろう。
棒を振り回して空の月を打とうとしたり、靴の上から痒みを掻くようなことで、
どうして真実なるものと交わることができよう。
私は紹定元年の安居を、東嘉の龍翔寺で過ごし、学人を指導する立場にあったが、
学人たちがそれぞれ悟りの境地について個人的な指導を求めてきたので、
思いついて古人の公案を示して法門を敲く瓦子とし、それぞれ学人の力量に応じた指導をする事にしたのである。
それらの中の幾つかを撰んで記録するうちに、思いがけずひとつの纏まったものが出来上がった。
もともと順序だてて並べたわけではないが、全体で四十八則になったので、これを『無門関』と名付けた。
もし本気で禅と取り組もうと決意した者であれば、身命を惜しむことなく、ずばりこの門に飛び込んで来ることであろう。
その時は三面八臂の那曹フような大力鬼王でさえ彼を遮ることはできまい。
インド二十八代の仏祖や中国六代の禅宗祖師でさえ、その勢いにかかっては命乞いするばかりだ。
しかし、もし少しでもこの門に入ることを躊躇すならば、まるで窓越しに走馬を見るように、
瞬きの間に真実はすれ違い去ってしまうであろう。

頌って言う。

大道に入る門は無く、到るところが道なれば、
無門の関を透過して、あとは天下の一人旅。

9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/22(木) 02:22:10
大道無門

10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/27(火) 02:27:34
第一則

趙州狗子

趙州和尚、因僧問、狗子還有佛性也無。州云、無。

無門曰、參禪須透祖師關。妙悟要窮心路絶。
祖關不透心路不絶、盡是依草附木精靈。且道、如何是祖師關。
只者一箇無字、乃宗門一關也。遂目之曰禪宗無門關。
透得過者、非但親見趙州、便可與歴代祖師把手共行、眉毛廝結同一眼見、同一耳聞。豈不慶快。
莫有要透關底麼。將三百六十骨節、八萬四千毫竅、通身起箇疑團參箇無字。
晝夜提撕、莫作虚無會、莫作有無會。如呑了箇熱鐵丸相似、吐又吐不出。
蕩盡從前惡知惡覺。久久純熟自然内外打成一片、如唖子得夢、只許自知。
驀然打發、驚天動地。如奪得關將軍大刀入手、逢佛殺佛、逢祖殺祖、於生死岸頭得大自在、
向六道四生中遊戲三昧。且作麼生提撕。盡平生氣力舉箇無字。若不間斷、好似法燭一點便著。

  頌曰
 狗子佛性  全提正令
 纔渉有無  喪身失命

11 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/03(火) 23:32:11
或る僧が趙州和尚に向かって問うた、

僧問「狗子(犬)にも仏性が有るでしょうか、それとも無いでしょうか。」
趙州「無。」

無門云く「参禅は、祖師の設けた関門を透過せねばならない。
妙悟を得るには、思慮分別を窮尽し絶することを要す。
祖師の関を通らず、思慮分別を絶し切ることのできぬ者は、草木に宿る精霊のようなものである。
さあ道え、祖師の関とは何か。ただこの一箇の「無」字、これが宗門の究極の一関である。
故にこれを「禅宗無門関(禅の門なき関門)」と名付ける。
この関門を透過する者は、親しく趙州に相見えるばかりでなく、
過去の歴代の祖師方と手を把って共に行き眉毛を結び合わせ、
祖師方と同じ眼で見、同じ耳で聴くことができるであろう。
なんと慶快ではないか。

この関を透過しようとする者はないか。360の骨節と、84000の毛孔をあげて、
自己の全身を大疑団として、ただこの無字を参究せよ。
昼夜間断なくひたすら参究し、虚無の無や、有無二元の無だなどと解してはならない。
それは熱い鉄丸を呑み込んだようで、吐き出そうにも吐き出すことはできない。
これまで積み重ねてきた悪知悪覚(二元的知識分別)を蕩尽して
久しく参究すれば純粋に成熟して自然に内外一切の対立は一枚となる。
これは、すばらしい夢を見た唖子のようなもので、ただ自知するだけである。
突如として関を打破すれば、天を驚かし、地を振動させるであろう。
それはちょうど、関羽将軍の大刀を奪い取って自分の手に入れたようなものである。
仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、生死の際に臨んでも真に自由自在を得、
六道四生の中においても、遊戯三昧であろう。

さて、どのように箇の無をひっ提げればよいのか。平生の気力の全てを尽くして、
ただこの「無」の字を参究せよ。もし間断することなく参究すれば、
法燭に火がともれば、暗黒はたちまち光明となるに似たり。」


頌って言う
 狗子に仏性あるかどうかと、丸出しにされた仏陀の命令。
 うっかり有無の話と受け取れば、忽ち命を奪われる。

12 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/14(土) 15:41:51


13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/23(月) 00:33:13
第二則

百丈野狐

 百丈和尚。凡參次、有一老人常隨衆聽法。衆人退老人亦退。忽一日不退。
師遂問、面前立者復是何人。老人云、諾、某甲非人也。於過去迦葉佛時曾住此山。
因學人問、大修行底人還落因果也無。某甲對云、不落因果。五百生墮野狐身。
今請、和尚代一轉語貴野狐。遂問、大修行底人、還落因果也無。師云、不昧因果。
老人於言下大悟、作禮云、某甲、已脱野狐身住在山後。敢告和尚。乞、依亡僧事例。
師、令無維那白槌告衆、食後送亡僧。大衆言議、一衆皆安、涅槃堂又無人病。何故如是。
食後只見師領衆至山後巖下、以杖挑出一死野狐、乃依火葬。師、至晩上堂、舉前因縁。
黄蘗便問、古人錯祇對一轉語、墮五百生野狐身、轉轉不錯合作箇甚麼。
師云、近前來與伊道。黄蘗遂近前、與師一掌。師拍手笑云、將謂、胡鬚赤。更有赤鬚胡。

 無門曰、不落因果、為甚墮野狐。不昧因果、為甚脱野狐。若向者裏著得一隻眼、便知得前百丈贏得風流五百生。

  頌曰
 不落不昧  兩采一賽
 不昧不落  千錯萬錯

14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/02(水) 04:20:29
不落因果

不昧因果

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